島津・薩摩切子の歴史「西欧(ヨーロッパ)列強と島津斉彬」

江戸時代、日本は、西欧(ヨーロッパ)などの諸外国から、黄金の国として有名になりつつありました。

そのため日本国は、西欧(ヨーロッパ)を含めた諸外国から、豊富な資源を採掘できる国として標的にされていました。

中でも当時、産業革命の真っ只中にあった、西欧(ヨーロッパ)やアメリカなどが、全世界植民地計画を掲げ、日本の支配まで、もくろみ、日本に幾度となく、調査団を派遣して来ました。

ペリー提督が率いた黒船などのもその一例です。

しかし、当時の幕府には、黒船を打ち倒すような軍事力などなく、むしろ、相手に頭を下げるような形で友好関係を結ぶ他、ありませんでした。

このような様子を見た、当時、南九州・薩摩を治めていた薩摩藩主・島津斉彬は、幕府の力だけでは、西欧諸外国から日本を守りきれないと判断しました。

そこで斉彬は、西欧諸外国と対等に肩を並べることを考え、そのためには、軍事力が必要であり、また、その軍事力を相手に見せつけることで、西欧諸国と友好関係を結び、日本の文明を近代化し発展させ、より強大で強固な国を作ろうと考えました。

そのために、必要なだったものは「技術力と資金」です。

斉彬は、この2つを手にするために、日本でしか、作れない特産品を生み出そうと考えました。

そこで斉彬により、考え出されたものの1つが、現代にもその名が伝わる、日本が世界に誇るガラス細工の技術の結晶・『島津・薩摩切子』です。

こうして斉彬は、日本人の器用さと職人気質を利用し、世界に類をみないガラス細工・「島津・薩摩切子」を、特産品として定着させることに成功しました。

その後、これらの特産品などを売り、巨万の富を得た斉彬は、西欧技術を数多く取り入れた「集成館」と名乗る事業を展開させ、これにより日本は急速に近代化して行くこととなります。

日本の国の誇りを守るために誕生した島津・薩摩切子は、その美しい容姿の中に、このような秘められた秘話を併せ持つため、

他のどのような陶器やガラス細工よりも、より際立ち、より美しく華ぎ、100年の時を越えた現代でも、我々の心を魅了し続けるかもしれません。

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